3連休の勉強計画

この記事を読まれている頃にはもう既に、暑くて雨が降り続けている2022年のお盆休みも過ぎている事だろう。

 

そんな一時の些細な悩みに、勉強や仕事のモチベがすごく低下する事を挙げたい。

 

資格勉強しないといけない思いと、休みたい思いが同時にある。

 

気候風土の事もあり憂鬱になるばかりで精神上この上よくないのではあるが、さてどうする。今本記事を作成している時点でカレンダーを見ると休暇は残り丸3日である。

 

普通の三連休じゃん。

 

というわけで、今後の普通の3連休に向けての対策をこの機会に建てようと思う。

 

ちっぽけな私事の悩みではありますががご付き合いよろしくお願いします。

 

 

1.やはり何を達成しないといけないか明確にしないといけない

 

さぁ勉強しよう!という気持ちがあっても、ゴールがないと走っていけないのが人というものであります。

 

そこで従来から人は「ノルマ」を決めたりして「この日はここまでやればいいよ」としているわけだ。

 

ということは、自分で「ノルマ」を決めることができれば、苦はないわけである。

 

皆様はぜひ一日の「ノルマ」を定めて勉強など取り組んでほしい。

 

しかし、私はめっぽうそれが苦手なので苦戦してしまう。

 

それでも勉強を疎かにしてはいけないので、この場を借りて「ノルマ」を立ててみようと思う。

 

目標:一級建築士の資格を取る、

   学科試験の後に製図試験を合格しなければいけない

 

手段:法規の問題を確実に解けるようにする

   構造計算を確実に計算できるようにする

   計画、環境、構造、施工の知識を身に着ける

(この場合、法規と構造の分野が明確な勉強、計画と環境と施工は終わりのない曖昧な勉強になる。この3連休はこの2つに絞ることにする。)

 

この3連休の「ノルマ」:法規の分野で知識をつける、構造の分野で知識をつける

 

「ノルマ」を達成するための手段:某総合□学院の映像講義を見る。量が多いので3連休で法規の演習テスト2~5、構造の演習テスト2~7を達成することを目標とする

 

 

 

やっと何をするべきか見えてきた。

 

しかし、この手段をもっと明確化しないと私は計画を実行できない。

 

面倒ではあるが、次に一日の流れをイメージして朝起きる時間や休憩に避ける時間を考えてみようと思う。

 

2.一日の流れをイメージしなければならない

 

皆様、申し訳ない。この記事では極めて個人的なケースがもとになっているので、一級建築士を勉強する人以外には理解しづらく退屈になっていることだろう。

 

ここでは、「へえ、こんな勉強の計画の立て方があるんだ」程度に見てもらえるといいと思う。

 

さて、当学校の映像講義はテスト含めて一つにつき1時間半かかる。その間パソコンや手元の資料を見て目が疲れる事間違いなしだ(私、ドライアイにつき)。

 

法規で1.5H×4回、構造で1.5H×6回だと、計15時間、多く見積もって18時間覚悟しなければならない。

 

もちろんぶっ通して勉強するのは私には無理があるので、なんとか細かく分けることでこの「ノルマ」を達成しようと思う。

 

まあ、実をいうと一日に3~4回講義を受けてテストを解くだけなので、昼前昼過ぎ(と)に時間をとればいいだけの話である。

 

朝は九時前に終わらせるつもりで講義を受ければいい。5時に起きて6時に受講という流れが理想だ。最悪、寝坊してしまっても7時半から勉強すれば取り返しがつく。

 

昼前は正午には勉強を終わらせたい。10時に勉強を始めるのが良いだろう。

 

昼過ぎは13時には勉強を始めたいものだ。しかし集中力が大事なので眠たければ昼寝をすることも考慮しなければいけない。16時までには勉強を終わらせている状態が理想だ。

 

夜はいつもの流れだと20時から22時にかけて勉強する。これはルーティンのようなものなので行けると思う。

 

その後いつも記事を書いているので、この流れなら無理なく勉強ができるはずだ。

 

昼寝に対する考え方は、少し批判的なものがあるかもしれないがそれについては次の項目で触れていきたい。

 

結論から言うと、昼寝大賛成である。

 

3.短い時間で疲れをとる努力を怠ってはいけない

 

私は体力に自信がある方ではない。

 

よって、細かに休息をとらないと集中力は長持ちしない。

 

業務中でも昼は寝ていることがほとんどである。

 

そうした方が、午後の6時間ほどの作業が集中してできるというわけである。

 

風呂に入ることもいい。あれは疲れがとれる方法の代表格だ。

 

目が覚めるし気分もいい。シャワーを浴びている最中は一種の瞑想状態だ。

 

一日で風呂に入るタイミングを逃すとモチベーションが確実に落ちるため、長くても30分は確実に風呂に使うことにしている。

 

昼寝は風呂と同じレベルで欠かせないものだという考えだ。

 

まあ、頑張れるときは勉強した方がいい。疲れた時はちゃんと休もう、という心がけの話である(自戒)。

 

4.【まとめ】他人の存在のありがたみを感じる

 

そんなこと気にしなくても頑張れる人っていうのは、その人のそばに他人がいる場合が多い。

 

実際の距離ではなく、心の距離の方が大事なようだ。

 

それはモチベーションとかやる気に繋がる。

 

仕事場での体験になるが、同じ職場で働いている人と空気を共にする時間は、自分も頑張れるというものだ。

 

そんな他人の存在のありがたみが、休みに入って感じるのだ。

 

本記事を読んでいる皆様には是非とも周りの友人、家族、彼氏彼女を大切にしてあげてほしい。

 

それが一番、勉強のモチベになることを信じている。

 

おわり。

読書の何がいいんだろう?【博士の愛した数式/小川洋子】

皆様、思い出深い本はございますか?

 

博士の愛した数式小川洋子】は、自分が中学生の頃いろいろ気づきを与えてくれた本です。

 

本を読むことで何を得ることができたのか。

 

本記事ではこの本に焦点を当てて考えてみようと思います。

 

ご付き合いよろしくお願いします。

 

 

1.数字と生活の境界線がぼやける体験

 

このお話、難しい数学の概念がたくさん出てきます。

 

それもそのはず、主要な人物の一人に「博士」がいて、その人は博士号をとった凄い人だったのです。

 

しかし、交通事故で介護を受けなくてはいけない状態になり、家政婦のバイトをしている「母親(ルートの母親)」とその小学生の息子、通称「(ルート)」と日々の生活を家で過ごすことになります。

 

その時にいろいろな数学を用いたお話をしてくれるのですが、その話が面白い。

 

数学の知らなかった知識を披露されて面白かったのではない。

 

数字への見方が特殊で、人の良さが垣間見えたのが面白かった。

 

最初のページをめくると、小学生に対して「」という名を名づけるところから始まる。

 

それは、本人の頭のてっぺんがルート記号のように平らだったからなのだが、その時の博士の言葉が面白い。

 

「これを使えば、無限の数字にも、目に見えない数字にも、ちゃんとした身分を与えることができる」

 

√を話題に出しつつ、その数学的性質について単調に説明するのではなく、その√の存在がお互いを対等な関係にしてくれる力を持っている事への博士の感嘆は、数字を今までとは違った見方にしてくれる。

 

私の場合、見えない数学が身近に感じることができた。

 

数学って意外と日常的なものなんだなあ、と感じたことがある。

 

今となっては、数字が人の生活に大きく影響する建築設計の世界と、この話に通ずるものを感じる。

 

他にもいろんな数学のお話があるので是非この本を読んでみてほしい。

 

2.家族に血縁関係はいらないのでは

 

このお話は「博士」「母親」「√」の3人で進んでいくが、その本質は決して数学を勉強する楽しさを共有するようなお話ではない。

 

先ほど挙げたものはどちらかというと副次的に得られるもので、本質は家族の在り方についての訴えだと思う。

 

「博士」「母親」「√」は血縁ではない。

 

しかし、本を読むとこの3人は本当の家族の様で驚かれることだろう。

 

この不思議な関係の中枢にあるのは「博士」の子ども好きな点と、「母親」「√」の真剣に「博士」と向き合おうと努力する点だろう。

 

つまり、気持ちの問題である。

 

一方、「博士」の親戚にあたる人も出てくる。

 

そちらは「博士」や「母親」「√」に対して作中では冷たく書かれている。

 

ここから、家族の在り方について疑問を持つようになった

 

私自身、家が居づらい環境で、逆に友人の家にお世話になった経験がたくさんあるのですごく共感してしまった。

 

親やこどもの心持が少し変わるだけでいい家庭が生まれるんじゃないか、という疑問を持つようになった。

 

ここで「博士」のセリフで好きなものを一つ紹介しよう。

 

「子供を独りぼっちにしておくなんて、いかなる場合にも許されん。(中略)さあ、今すぐ、家へ帰るんだ」

 

この言葉はこれからもずっと自分の心に繰り返されることになる。

 

一人で待たされている子どもを見ると、いろいろ複雑な感情が襲う。

 

自分の妹がそういう状況であれば、何かしらかまってあげたくなるような感じだ。

 

3.【まとめ】数字の向こうに見えた人間模様

 

やはりこの本は人間関係についての本だと思う。

 

あくまで数字は「博士」と「母親」や「√」をつなぐための媒体に過ぎない。

 

しかし、数字で行われるやり取りは馬鹿にできないほど新鮮だ。

 

数字の向こうに優しさが見えた瞬間が、この本から得られる貴重な体験なんじゃないかと思う。

 

皆さんもぜひ、数字と生活の境界線がぼやける体験をしてみてほしい。

 

 

 

ちなみに途中で野球についての話がちょくちょく挟まれる。

 

私は野球については疎いので読みづらくはあった。逆に野球について多少の経験がある人が読むと読みやすいのかもしれない。

 

おわり。

CD派の私の意見(音楽の楽しみ方)

音楽を楽しむ時、人によって楽しみ方は千差万別だと思う。

 

ここで整理したいのは、同世代でCDの魅力を知っている人が少ないんじゃないのか、という個人的な疑問である。

 

ここでは、現代の楽しみ方として一般的なサブスクでの音楽と比較して、CDの良い所を語ってみようと思う。

 

 

1.やはり一番のメリットは形に残せる点だと思う

 

私の話で申し訳ないのだが、本棚にCDケースを入れている。

 

いろんな本が並んでいる中に今まで聴いてきたCDが並んでいるのを見るのが好きだ。

 

本棚全体で見るとやはりそこは異様な空間があり、そこに目を向けるとそれぞれのCDが激しく主張しあっているようで雑多としているが、一個一個に集中してみると買った当時の思い出が湧いて出る。

 

こういった感情を文で表現しようとすると難しいが、本棚が賑やかに感じて素敵だなと思う。

 

よく本棚は人生だという人がいるが、音楽も人生を彩るものであるし、思い出を記録するメモリとしての媒体がCDなら、本棚に入っているのも不自然ではないように思える。

 

少しのお金と勇気を出せば人生レベルで素晴らしい作品を手にすることができるので、私はこれからも積極的にCDを買っていきたい

 

(金銭面ではやはり厳しいところがあるのでブック〇フにはこれからもお世話になることだろう)

 

スマホで音楽を一時的に楽しむのとは違った喜びがそこにあると思っている。

 

2.これから聞く音楽を決定する楽しみ

 

youtube等のおすすめ欄、ランキングコーナーにお世話になっている人は存外多いと思う。

 

そこから知らない曲に触れていくのも今ならではの音楽の楽しみ方だ。

 

私もつい最近までそういう使い方をしていたのだが、それはあまりにも受け身な音楽の楽しみ方だと気づいた。

 

この楽しみ方の欠陥は、以下のような事だと考える。

 

運営「この曲が最近のトレンドだよ、

君はこういうのが好きなんだよね?

他の少し古臭い音楽や海外の曲は聞く必要ないよ、

君が好きなのはこういったジャンルの曲なんだからさ」

 

という押しつけ行為が潜んでいるのある。

 

音楽は本来ジャンルランキングなんかで区切れるほど単純なものではないと思う。

 

また、流れに身を任せるようにして聴く音楽は、調べたり考えなくていい分、音楽そのものがもつ本来のパワーが失われているように感じる。

 

便利さと豊かさは相反するという事実がそこにはある。

 

一方、CDで音楽を聴こうとすると、何を聴くか考える時間が生まれる。

 

「今の自分が聴きたい曲はなんだろうか」「どっちのCDを流す方が今の状況にあっているだろうか」

 

私はこのこれから聞く音楽を決定するために考える時間がとても好きだ。

 

そういった経緯で実際に聞いてみての繰り返しの方が、一回一回の楽しみが増えて楽しい。

 

どうやら自分は、CDの方が性に合っているようだ。

 

3.人それぞれの楽しみ方あるから音楽が好きだ

 

とはいえ、世の全員にCDをお勧めしようとは微塵も思えない。

 

MVで楽しむ人や、実際にライブを聴きに行く人、演奏して楽しむ方法もある。

 

そもそも、音楽自体が地域の民族性や文化性に大きく寄るものだと思うので、この記事で取り上げた「音楽の楽しみ方」については多様性のある現状維持でいいのではないかと考えている。

 

しかし、CDの魅力は確かにあるので、ぜひ一度ブックオフなどで気軽に手に取ってもらいたいものである。

 

おわり。

「生きてるだけで偉い」って本当なのか?いい人になりたい自分の見解

私の抱える悩みの本質はきっと、「いい人になりたいな」なんだと思う。

 

皆さんは、こんな経験はなかっただろうか。

 

人と話をしていて、相手に対して心から尊敬する機会。

 

誰かの書いた本や記事を見ていて、自分もこうなりたいなと感じる機会。

 

きっと皆さんにとっても、こういった機会は常日頃からあるだろう。

 

ここで整理したいのは、どうやったらそういう「いい人」みたいになれるだろうか、という漠然とした悩みである。

 

そしてその悩みを整理していくと、とあるうさんくさい常套句に対しての、私なりの見方が再構築できたので、その点についても最後に触れていこうと思う。

 

これから自分自身の見解と解決法をまとめていくので、参考にしてもらえたら何よりである。

 

 

1.「いき」な人になりたい(のではないだろうか)

 

皆様、「いき」という言葉をご存じでしょうか。

 

私はまだ20歳という平成生まれのクソガキなので、この言葉を聞いたことはあるけれど、うまく説明できない。

 

説明できないのに、憧れはあった。

 

思えば、自分が尊敬している人には共通して「いき」な心があるように思う。

 

他人の悩みについて真剣になれる人に「いき」を感じたし、ちゃんと本音で話し合ってくれる人に対しても「いき」を感じる。

 

職場の(大)先輩からは、仕事上で自分のよくないところを叱られてしまい恐縮してしまう。

 

しかし、その言葉の裏にある「がんばれ」という思いを感じると、うれしくてしょうがないし応じたくなる。

 

そんな先輩と一緒に仕事をしていると、心意気のある人だなあ、と常々思ってしまうのである。

 

ところで、「いき」の由来のひとつに「意気地」があるらしい。

 

また、「いき」という言葉はかなり民族的で、そもそも説明が難しい言語であるらしい。

 

どうやらフランス語のcielと英語のsky、ドイツ語のhimmelが、普遍性はあるが民族性に影響されることで絶対性はない事と通ずるらしい

(ここら辺の話は九鬼周造さんの【「いき」の構造】という本をかじってるだけなので、あえてぼかさせていただく。内容が難しいけど、ちゃんと理解して人に説明できるようになりたい)

 

こんなへっぽこな知識からでも気づきはある。

 

先ほど述べたように、自分が「いき」を説明できないのになんとなく理解していた現象に、理由を付ける事ができた。やったね。

 

考える余地ができたので、当面の目標を「いい人になる」から「いきな男になる」とする。

 

さて、まだ漠然としているこの目標を達成するにはどうすればいいだろうか。

 

ここから解決方法を考えていく

 

2.人とぶつかり研磨していく

 

自分の思う「いい人」とは「いきな男」だ、と仮定するとき、「いきな男」になるにはどうすればいいだろうか。

 

「いき」の由来のひとつに「意気地」というものがあるので、そこからヒントを得てみる。

 

どうやら「意気地」というものは、江戸っ子(江戸児)や江戸の花を代表する江戸文化の道徳的理想が関係しているようだ。

 

この「江戸の花」からヒントを得ることができそうだ。

 

この言葉は、寒かろうが法被一枚で命を惜しまず火消しを行う「男伊達」を尚(とうと)んだものらしい。

 

なるほど、自分の被害を顧みない行動が「いき」につながるのか。

 

私は臆病なので、自分に非があるような相談事はめっぽう苦手である。

 

いつも心の中に「怒られたくない」「迷惑かけたくない」といった膿のようなものが存在する。

 

仕事上は頑張って自分の気持ち悪い感情を押さえつけてでも、頼れる人に相談できるようになりたい。

 

解決方法1.「怒られるかも」と感じても勇気をもって相談してみる。

 

人とぶつかって、回数を重ねていけば自分の人格が研磨されていくものだと信じてる。

 

3.失敗を必ず経験にする

 

私はよく失敗する人だと思う。

 

ちゃんと相談してよ、と怒られたり、

車の運転事故でたくさん損したり。

 

この二つの失敗は、いま頑張って乗り越えようとしている事だ。

 

相談事については、先ほど挙げた解決方法を意識して注意されにくくなった。

 

車の運転事故については、もう事故しないように朝早く起きたり、目薬を用意して運転中の目の乾燥を防いだりするようになった。

 

実は、少し前までは失敗した事はすぐ忘れようとしていた。

 

それが繰り返したくさん失敗する原因になっていたのに気づいたのは最近のことである。

 

気づいてからは割と早かった。

 

失敗しないようにどうすればいいか考えて、真剣に取り組むことができれば、本来の問題を予防できるし、副次的なものも得られることに気付いた。

 

その副次的なものとは、運転事故の反省からだと朝早く起きることにつながるわけだが、そういったことは全部「いきな男」という理想の人格に近づくための手段だと気づいた。

 

ちゃんと朝早く起きたり、相談事ができる人ってかっこいいですよね。

 

それが自分を良くしようとして生まれたものなら、それに「いき」を見出しても良いのではないだろうか。

 

解決方法2.失敗したら、必ず良い経験にする努力をする

 

4.【まとめ】この事から「生きてるだけで偉い」という常套句を捉えなおしてみる

 

最近耳にした言葉で腹が立つものがあった。

 

「生きてるだけで偉い」

 

私はクソガキなので、「どこが偉いん、生きてても偉くないやつはおるやろ」と思っていた(あながち間違ってはいないと思う)。

 

しかし、「いい人」を目指して真剣に考えた後、この言葉にはこういった隠されたメッセージがあるんじゃないかと思った。

 

「(頑張って)生きてるだけで(大きな失敗したとしてもそれは)偉い」

 

今となっては、真剣に、全力で、頑張って生きてる人への応援メッセージに聞こえてならない。

 

なぜなら、その行為こそが「いい人」になるための手段に他ならないからだ。

 

「いい人」を目指した結果、不快に感じる言葉への考え方が変化して面白い。

 

 

 

ちなみに、なぜ私が「生きてるだけで偉い」という言葉を取り上げたのかについて。

それは、とある本を読んでいた時に、この言葉に対する批判を見つけたからだ。

「そういえばこの本で言ってたっけ・・・」と思い、心当たりのある本を数冊あたったが、

なかなか探すと見つからない。心のモヤモヤは残ったが、また読んだ本を読むいいきっかけになった。

しかし答えは見つかっていないので、いつか必ず誰が論じていたのか突き止めようと思う。

おわり。

【サウナ】お風呂にお金かけてまで行くやつの気が知れなかったあの夜

週一のペースで銭湯やサウナを楽しむ人たちに対して、理解できないなと思っていた時期が私にもありました。

 

どうも、サウナの良さを知ってしまった寝屋川です。

 

 

皆さん、銭湯はお好きですか?

 

世間一般的に見ると、銭湯は需要があるようですね!

 

私の友人にも、週一で銭湯に通っている人(友人M)がいます。

 

私の銭湯に対する考えを述べると、銭湯は嫌いなわけじゃないけれど高い頻度でお金をかけてまで行くものではないな、と考えていました。

 

そんな私が、友人Mにサウナの魅力をわからされてしまったので、この記事で何が良かったのかを整理していきたいと思います。

 

よろしくお願いします。

 

 

1.前提としてお金の使い方の話、「他に使いどころないのか」という疑い

 

そもそも論ですね。

 

少し私の話からさせてください。

 

私は学校卒業後、社会人になって、自由に使えるお金がたくさん手に入りました。

 

実家暮らしをしていることもあって、貯金は人並みに貯まっていったと思います。

 

初めて給料をもらった時、これはお金を貯めるチャンスなのでは!?と思い、無駄遣いはしないよう心がけていました。

 

そんな私でも、お金を使いたくなる場所が2か所ありました。

 

それは、 本屋 と CDショップ です。

 

なるべく中古を買ったり、新しいものに手を出さないようにしているのですが、

やはり「これは必ず手に入れたい」と思うものは存在します。

 

そういうことにお金を使いたいというのが私の本音なので、週一で銭湯に行く人たちに対して、月に本2冊買うのを無駄にしている感覚があったのです。

 

・・・これを読んでる方にもそのような感覚はございますでしょうか?

 

そんな考えを持った私ですが、ある日友人Mに誘われて銭湯に足を運ぶことになります。

 

2.騙されたと思って銭湯(700円)に行ってみる

 

先ほど述べた通り、友人Mは週一で銭湯に通う人です。

 

彼から、最近通っている昭和っぽさが残っている小さな近所の銭湯に一緒に行こう、という誘いを受けました。

 

なんて興味を惹かれる銭湯なんだ!という気持ちが一番にありました。

 

月曜日の仕事終わりに友人Mと一緒に銭湯に向けて車を出します。

 

ところでみなさん、定休日をご存じでしょうか。

 

下調べが足りず、我々はお互い行ったことのない別の銭湯(比較的おっきな駐車場のある銭湯、平日入館料700円)に向かうこととなったのだ・・・

 

3.いざサウナへ

 

入館券を買い、服を脱ぎ、浴場に入り、いざサウナへ!

 

・・・となる前に友人Mに聞いてみる。

 

「風呂入る順番とかって決めてるん?」

 

結論、ちゃんと決めてた。サウナは後の方。

 

お楽しみは最後に取っておく、というやつだ。

 

まず体を洗う。そして露天風呂につかる。

 

体温を適度に仕上げるためだ。

 

そしてちょうどよく温まったらついにこの時がやってくる。

 

いざサウナへ!

 

 

・・・入って何分経っただろうか、テレビに流れるビールのCMに耳を貸さないようにしながら体感5~10分経った後、友人が口にする

 

「出るか」

 

このセリフの背景に、当サウナ室に(コロナ禍のせいで)あまりしゃべってはいけないルールがあったことを忘れてはならない。

 

しかし、なかなかどうしてサウナ室の静寂とテレビからの雑音は居心地が良かった。

 

そしてその後に水風呂に入り、私の生命エネルギーが大爆発することになる

 

【まとめ】サウナとは黄金・体験

 

(なんじゃそりゃ、と思った方はジョジョの奇妙な冒険の第5部を見よう)

 

初めての体験だった(今年で21になるのにね)

 

水風呂で全身に流れる血液の流れを感じた後、もう一度外に出る。

 

ベンチに座ったり、ちょうど座りやすい形をした岩(っぽいもの)に座ったりして、寝転がれるお湯のところで屋根裏を見上げる。

 

身体から力が抜けていく・・・

 

すっごい気持ちいい。700円なんて気にならなくなるわこれ。

 

ちなみに、最初露天風呂入った時には既に満足度高すぎて、700円の元を取った気になっていたのだが、軽くその満足度を超えてきた。

 

うわぁ、また来たいな(沼にはまる一歩手前)

 

友人Mにこの場を借りて感謝しようと思う。

 

ありがとう、友人M

 

そして身体の調子も落ち着いてきたころに、屋内の風呂に浸かる。

 

泡ぶくぶくする風呂で浮遊感を感じた後、最高にリフレッシュした状態で着替え場に戻る。

 

幸せすぎて笑顔が止まらない、口からは感動したという意味の言葉しか出てこない。

 

最後に自販機で水を買って、一連の流れは終了だ。

 

これを読んでくれた方に、サウナの良さが伝わればいいなと思うばかりである。

 

おわり。

資格勉強頑張りたい事と、私生活の矛盾がもどかしい(ちゃんと勉強するためにやってる事)

一級建築士の資格取得に向けて勉強中の寝屋川です。

 

 

最近、やっと私生活で勉強する癖がついてきた気がします。

 

今でこそ効率を意識して勉強に活かすことができているのですが、独学中(学校卒業から試験までの三か月)は気持ちと行動がうまくかみ合わず失敗したなと思っています。

 

そんな失敗した事に対して、二度と繰り返さないように意識している事について書いていこうと思います。

 

どうぞよろしくお願いします。

 

ちゃんと勉強するためにやってる事

 

Point1.それって本当に必要?となるものをやめてみる

 

自分自身薄々気付いている方は多いと思います。

 

ただ、そこに目を向けるのがとってもつらいわけです。

 

毒を飲む思いで私の場合を挙げると、以下の通りです。

 

SNS(特にTLやストーリー)

スマホゲーム(別に誰かと遊ぶわけでもないのにね・・・)

youtube(暇つぶしの用途で使う場合)

・惰眠(寝過ぎは毒)

・○○○○(自主規制)

 

「うわあ、これは酷い」と思ったことでしょう。

 

あまりの酷さに記事を読みたくなくなったな、という読み手の気持ちは予想はできますが、ちょっと待ってください!

 

実は私、こういったことに時間を使ってしまう悲しい方たちが一定数存在するんだろうな、と本気で悩んでいたんです(いろんな方に対して失礼な文ですね・・・)。

 

先ほど挙げたことについて、ちゃんと良くないことを整理すると以下の点でまとめられると思います。

・使った時間に対するリフレッシュ効果や満足度が低い、なんならエネルギーを使う

・使う時間に制限が無くなり、自己管理できなくなる

モチベーションの低下

・受動的な情報収取(自分から調べたり学ぶことに対して苦手意識が生まれる)

 

いろんなことに通じそうな、現実的で怖い問題に見えてきました。

 

資格勉強において、モチベーションの低下が一番のやっかい事だと考えています。

 

じゃあどうやって改善したんだ、という話になるんですけど、簡潔にまとめるとこうなります。

 

能動的に活動できて、かつ高い満足度を得られるものを見つけることです!

 

Point2.能動的で満足できることを見つけよう

 

これは人それぞれなので具体的にこれだよ、と言うのができないのですが自分のケースについてお話します。

 

前提として、自分は他人より考え事が多い人間です。

 

作業中でも、思いついたことがあればメモを取り出し、頭の中を整理して新しい発見をするのが好きな人間なのですが、そういった方にはアドバイスになれるかもしれません。

 

それは自分の考えを消化することです!

 

・・・は?となってしまうかもしれませんが、ちゃんと解説したいので少し聞いていってほしいです。

 

まず、これには経験上二つのパターンがあると思います(もっといろんなパターンがあるかもしれませんが、実体験に基づくため、二つお話させてください)

 

①心の許せる人間と本音で語り合う

②メモを整理して発見としてブログの記事に書き起こす

 

誰にだって友人と語り合う経験はあると思います。その時、嘘偽りなく心から爽快感というか、すっきりした気持ちになりませんか?

 

私にとって、それを感じた時に満足するのです。充足してる、満ち足りているんです。

 

友人と語り合う時間を多く取れれば楽しそうですが、これには時間を合わせる大変さや、かなりの体力を消費するデメリットがあります。

 

兄弟がいる場合はこういった話を日常的に振っても良いかもしれませんね(満足度は高くないかもしれませんが)

 

そこで、私は究極の自己完結した形として、ブログを書くことにしました。

 

不思議なことに、勉強終わったら記事書くぞ!と決意すると勉強も集中できるし、

記事を書いた後の達成感は、本を一冊読み切ったものと似ていて、けど少し違った満足感があります。

 

心の底から楽しんでるわけですね。

 

しかも、勉強のモチベは落ちるどころか上がるばかり、いいことづくめですね!

 

モチベーションに困っている人には是非ともブログで記事を書いてみる事をお勧めします!

 

注意点としては、誰しも高い満足感を得られるわけではない事と、必ずしも読んでもらえる、評価されるわけではないことでしょうか。

 

私自身、今後続けていけるかは未知の領域なので、また研究成果が出てきたら記事を作ろうと思います!こうご期待。

 

Point3.勉強のやりがいを真剣に考えてみる

 

よく耳にする解決方法ですね。

 

私自身、「やりがい」という言葉がそこまで好きではありません。

 

やりがい、というからには正当な理由、真っ当な理由が求められてそうで気疲れします。

 

よく、人は勉強のやりがいについて話すと「自分のために」とか「会社のために」とか「お金のために」とか、決まり文句のように話しますが

(※超偏見です、実際はめちゃくちゃ悩んで考えたうえで説明が面倒くさいから簡潔にこうまとめているだけだと信じています)

こういった言葉ってとっても不明瞭ですよね。

 

ちゃんと考えているのでしょうか。そう答えることが正解だと勘違いしていないでしょうか。

 

例えば私の場合は、某総合□学院に、変に高い学費を出して通っているのですが(つい最近の出来事)、高い学費を出してまで通おうと思った一番の理由は、「本気で勉強して独学の人たちよりも知識を付けて一発で学科試験から製図試験まで突破したいから」です。

 

独学なんかで学科受かったやつに製図で先を越されたくない、

という変なプライドが自分の中にあります。

 

学科勉強中の時点で製図を意識した勉強できるのは学校しかない、そういう考えなわけです。

 

これで独学と差がつけれるはず・・・という期待。

 

どうなるかは正直未知の領域ですが。

 

 

実は、学校に通うにあたって期待したいことがもう一つあります。

 

それは、社会人の時間感覚を身に着けたい、という願望です。

 

なぜなのか。それは私が学生時代、卒業研究やプロジェクトリーダーでいろいろ失敗した事から起因するのですが、これらはまだ自分の中でもやもやしているところが多いので、割愛させていただきます。

 

(経験者には察していただけると助かります・・・)

 

ただ、こんな失敗は二度としたくないがために学校から得られるものを得よう、という魂胆なわけです。

 

このように、勉強する理由について真剣に考えると、自分の見たくない過去が出てきて辛いことになると思います。

 

それにしっかり向き合えば、自ずと見えてくるものがあると思います。

 

勉強する方の助けになれば幸いです。

 

 

まとめー友達ほしいだけかもしれないー

 

いかがでしたか、何かヒントは見つかりましたか?

 

私はいろんな本を読んでいた結果、悩みがちで考えがちな現在になったと思います。

 

しかし、そういった本の中にもヒントは隠れていると思うので、ぜひ今の時代に本を読んでみたりすると良いかもしれません。

 

本を読むと、私みたいな友達が増えると思います。

 

・・・友達ほしい・・・おわり・・・

 

ーおまけー

建築学科でがんばってる人(とある後輩)に伝えたい本

必要なかったらごめんね

 

 

SNSが苦手で嫌いな理由、それでも使う理由

閲覧ありがとうございます。寝屋川です。

 

唐突ですが、私はSNSが苦手です。

ツイッターは何度も入れては嫌になり消しており、インスタグラムはやる理由も見つからず開くたび消そうかなと考えている始末です。

 

この記事ではツイッターに対して考える不満と、これから先使えるようにならないといけないと感じた理由について書いてみようと思います。

 

稚拙な記事になりますがぜひ最後までお付き合いください。

 

 

ツイッターが嫌いな理由①コミュニティへの不信感

 

ツイッターを本名で使い、公式アカウントや有名人のツイートに返信したり知らない人と交流している人はかなり少ないのではと思います。

 

新しく名前を設定し、そのアカウントで知らない人とツイッターで交流を図るのが実情だと思います。

 

それはある意味で自己防衛と呼べなくもないですが(個人情報の流出の防止)、私からすればそれは違う自分を演じているようにしか感じられず気持ち悪く感じます。

 

知らない人と交流できるシステムなのに、繋がりを感じることはほとんどないジレンマがあるのが耐えられなくなり私はツイッターをやめた経緯があります

 

体験談になりますが(ここから先は興味ない方は飛ばしていただいてもよいと思います)、私は中学生時代、知らない人とアニメや漫画、映画やラノベの繋がりをツイッターを通して行っていました。

住む場所も違えば年齢も違う方と交流していたのですが、そこには現実感を感じられません。それでも、人とつながってることへの喜びがその寂しさより勝ってしまい、話題のネタとしてアニメを一夜で一気見したり、ラノベをたくさん買っては読み老けていたところがあります。正直、数年たった今では、ソードアートオンライン魔法科高校の劣等生を読み返そうと思う気にはどうもならなくて、なんでこんなことに時間とお金を割いてしまったんだろうか、と悔やんでいるのが実状です。読書が好きになったきっかけになった、という面につながっているかもしれないので、全部を否定はできませんが。昔話おわり。

 

まとめると、昔は実在するかわからない存在のために莫大な時間とお金を使っていたのです。結局つながりなんて得られず、ツイッターのコミュニティなんて儚いものなんだなと考えるきっかけになってしまいました。

 

ツイッターが嫌いな理由②いらないものをおすすめされる

 

人気記事や芸能人についての記事、しょうもない炎上や実在するのかわからないウイルスの話など、目に毒な情報がおすすめされることはよくありますよね。これはツイッターだけの話ではないですが。

 

これらがあるからツイッターのTLは見たくもないし、検索ページに飛びたくもないのです。身内のTLになると誰かへの悪口や愚痴、不満とかが出てきてほんとに嫌になります。

 

じゃあTLがきれいになればいいのか、というとそうでもなく、それはそれで「うわあ、偽善者がたくさんだあ」なんて思ってしまうのだろうと思います(「君のためを思ってやってあげてるよ」構文が嫌いな自分の性格的に)。

 

夏目漱石の坊ちゃんで出てくる、少年時代の話での清に対する思い、これにに近いものを自分も感じるだろうという予想なわけです(わかりづらければ申し訳ないです・・・)。

 

結局、いらない情報を受け取り、それに翻弄されるのが苦痛でしかないため、ツイッターが嫌いなわけです。

 

ツイッターが嫌いな理由③文字数足りません

 

もっと書かせてほしい。それにつきます。

 

自分の思いは140字で整理できません。説明の不備にもつながるし、解釈の相違も生まれるので、苦手。

 

その制限がなければもっと賑やかになるんじゃないだろうか、と思う。それが地獄絵図の様に思えなくもないのでなんとも言えませんが。

 

ただ140字の制限を無くしてほしい、というわけではないのはご理解いただきたい。文字数が少なすぎるのが問題だと思うのです。

 

それでもツイッターを使おうと決心した理由

 

こうして整理してみると、私はツイッターなんてやらない方がいいんじゃないのか、向いてないよ、なんて思われるかもしれません。ですが、それでもツイッターを使おうと考えた経緯があります。

 

今のままだと仕事に支障がでる、という危機感です。

 

私が携わっている仕事は誰かの力を借りないとできない仕事なわけです。

そこには建前や不信感、恐怖などはない方が仕事はうまくいくのですが、実は私すごく臆病なのでございます。

 

とにかく一対一で腹を割った状況じゃないと自分の考えも言えず本音も言えない。なんなら話す相手にしたって自分が気を許した人じゃないとうまくいかない。

 

こんなやつが仕事うまくいかないはずだろう、と自分自身が一番強く感じています。こういった弱みを改善するには、他人に揉まれるしかないと思うのです。

 

そのために今の業務内容は自分にとって修行だと割り切っているのですが、もう一度SNSと向き合ったりするのも大事だと考えています。

 

もう一度、知り合いとツイッターで繋がり、自分が目の前では言いづらいことや口にしづらい考えをアウトプットし、知り合いに見てもらう。次に実際にあった時に軽く聞いてみたりする。話題の種にもなるし、自分の研鑽にもつながる。本音で話せる。

 

こういったことを期待している。正直、今のツイッターの実情はよくわからない。今後の時代の流れでSNSが仕事になる可能性のことも考えると、やったほうが良いんじゃね、という結論に至ったわけだ。

 

 

ここまで見ていただき本当にありがとうございます。

またいろんなことを書いていこうと思うので、ぜひ意見をお聞かせください。

 

ところでこんな記事を知り合いに見せるのは超怖い。

頑張って心許せる人から共有していこうと思う。